1971、Portrait in Negation──近藤和中『帰ってきたエルンスト』

 舌打ちは自分が傷つくからやらない、とある配信者が言っていた。
 ほんとうにそうだと思う。


桜を湯がく できないなんて/暮田真名「川柳メイキング04」


もうこんな・は嫌 又三郎ざあざあやみを鳴らしてくれる/とみいえひろこ「うろ」


水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている/嵯峨直樹『みずからの火』


 頷けない歌集、すきでない歌集とはべつに「悲惨な歌集」と言わざるをえない本はある。『帰ってきたエルンスト』(近藤和中、ニトリア書房、1971年)は私にその意味でとっておきだ。
 悲惨な、というのは、私がその悲惨さと無縁ではいられないと思うから。この歌の責務をお前がとれ、と言われているから。この歌集はきっと私に脅すでもなく差し向けられた負債だから。この歌群の「死ねないほどの大怪我」はきっと、私が「軽い気持ち」で「輸血したい血」をいつでもせびりに来る筈だから。

岩場の崩れゆくと環状指数による誤差と 理由を辿り難き ancient-cross


SWAY 皮膚と樹木の交叉せる夏のおわりの烙印からの


それからのむなしさの綾織の糸のきらめける海のうねる日


砂けむり雲へ噴きあげる胸隔の平均的な夜の感情

 「ひとつの文章の最大の無意識がそれを読む読者であるなら」(富島美子「幻惑のインテリア」)、そうであるならすばらしいと思う。しかし今は私はこれらの歌にとっての「寄り添う無意識」ではなく、「吐き気がする超自我」として振る舞う。そのほうが自分自身にはねかえってくる。
 近藤和中の歌にとっての吐き気がする超自我として私は、上に引いた4首は「いい歌」ではないと決めつけておく。しかも集中ではこの4首がマシなほうだ、と言いたいがために……。まぐれ当たりだろうがこれらの歌は結局、音によって救われているからだ(4首目の下句のような言葉を放埓してるうちに事故で生まれた字の並びに芽生えた気持ちをもっと愛せばよかったのに、そして2首目のような「短歌という書かれたビジュアル、構造とそのプロポーション」への嗅覚をもっと大事にすればよかったのに……! 私は自分のことみたく悔しい)。それでわざわざ引いた訳もある。こうした歌は自分で自分をなんとか救いかけている。
 でも歌集の大半の瞬間は私にどうしたって「悲惨」に映る。もう超自我もクソもない。この本の出版が1971年ということを思いだしておこうか? 五句の間の領域侵犯をあまり危機感もなさげに「なんとなく」で乗り移っていくかつての「新短歌」系の口語自由律運動のリズム面における負傷と、「密輸」という暗い喜びも、最良の韻きのために音を斡旋する思慮もなしに、海外の固有名詞や人名を歌作に運ぼうと急いだモダニズム短歌の語法における負傷とを、相対化も批評もなく、また罠を罠だとも思わないまま、1971年の時点でいっぺんに二重の負傷=負債として熱に浮かされたように生きるということが端的にどう映るかは次のような歌を見ればおおむね察せられる。

ホレス・シルヴァー ピアノ弾け C14細胞異常分割 抗原削除 ※「14」は上つきの小文字


波動  意識の分化の再分裂 頭上に亜種のオブジェ・スクラム


弱イオン化した精子の痕跡デスマスクに吊られ献身するジュラ


黄のバラの花弁のなかのキャンバスの未完の裸婦の胃の中のピアノ


磁核 位置を変えつつ クレーの 卵形拡大し〈アルハムブラ〉弾き終る


冷凍時計と矩形のコートその他の放心平均台上で踊るカラビナ


ベルナールの妻縊死ののち 循環一元論 文字刻み 数式をたて

 先に比喩として告げておくならば、研究室(ラボ)と美術室(アート)の飽くなき往還という「気分」は、この歌集の大きなウェイトを占めてはいる。いわばキャンバスのすぐそばに顕微鏡がある……という部屋の「時代精神」が歌集を救っているようにはとても見えないまでも。
 この名詞の散らかしを私はほとんど切ないと思う。自分の眼を心を輝かすお気に入りの単語ひとつあれば歌はできる……ふたつ詰めこめばもっときらきら。「歌のために単語を捨てるなんて馬鹿だ」「嫌だ、捨てられない、見逃してくれ、この単語は絶対に持っていく」。そして、そんな風に案じてみることがこの歌集のなにをも救う訳ではないことも私は知っている。そうだね、字義通りに:「つきあいきれない」。
 ここで加藤克巳はどうなのかと問われるだろう。時期的にも『球体』『心庭晩夏』はおそらく近藤和中の歌作に身近な影響源としてあっただろう。ただし加藤克巳はその貪欲さによって短歌の定型と独自に渡り合ってみせることができた。「ふりつもる心の雪のあかときの青のまぼろし若き夢さむ」「あかときの雪の中にて 石 割 れ た」「不気味な夜の みえない空の断絶音 アメリカザリガニいま橋の上いそぐ」という複数のタイプのリズム考を、加藤克巳はともかく一冊のうちに一挙に提示してみせることができた。あるいは口語自由律の展開のうちに一個のトラウマを残していった児山敬一は、「夕日 雑草も張るみどり、気をつけて とかくいたましい花のしろ。」と歌うことで、その「気をつけて」というフレーズひとつで近代短歌の育んできた秀歌性という基準と渡り合うことができた。加藤克巳の貪欲さや、児山敬一のフレーズという切迫した祈りの側へ、近藤和中の眼が泳ぐことはない。あまりに近藤和中は名詞をコレクションすることに眼を奪われてしまっているため、また、あまりに単語の救助にいかれてしまっているため……。


 結社「個性」会員の第一歌集ということで加藤克巳が序文で筆を執っている。そこにも悲惨さがある。「帰ってきたエルンスト」という歌集名はどうも加藤克巳が選んでつけたものらしい。それはべつにいい。しかし加藤克巳は「帰ってきたエルンスト」という題がいかに著者にふさわしいと思ったかを頼んでもいないのに説明しようとして、エルンスト語り、ブルトン語り、超現実主義語り──しかもただの怠惰な丸写し──でページの大半を楽々と埋めてしまう。これから新たに出発しようという歌人はこうして結社の代表者のエッセイ、挨拶文の、たかだか「だし」にされていく。
 加藤克巳の文はあんまりだなってだけ、でもそれをきっぱりとはねつけるだけの一首をこの歌集がついに持てないでいることも事実に思えてしまう。そのほうが悲惨だ。歌集をだすことって、歌集をだすなんてことはさ、この歌人にも大のつく冒険だった筈だよ……?? …………???

白日のギターが告げるふかき眼をいまも信じているはつかれたる蝶

 現代短歌を読みはじめたばかりの……私が勝手にひそかに期待をかけていたひとがずっと昔に「いい歌か、だめな歌か、短歌は読めばすぐわかるので良い。」と日記でかいていたのを思いだす。でもそれは連作という単位、歌集という単位、歌人という単位を忘れて初めて言えることだな、と私は思った。
 実際、上に引いたこの歌は「いい歌」か? 下句の接続に見すごせない傷を負っているのはたしかだけれど、私はこの歌をそれなりに「いい歌」の側に思いたい。するとたちまち、ほかの歌がうるさく邪魔をする。この歌が騒音だらけの本から避難させるに足るだけの歌だったのか、あやしくなっていく(汚染、汚染、……)。「いい歌」を「いい歌になりかけている歌」「偽装されたいい歌」「大してよくもない歌」に曖昧に引きずりこもうとする磁場に鬱陶しくも翻弄される経験を、「価値観のゆさぶり」だとか「秀歌性の問い直し」と言って肯定することを否む気はないけれど、そのためにだってせめて、核になるような絶対の一首が私はほしい。そうでなくては。


 歌集には中村蕙子と共作された連作「鳥・変形・バラード〈合作〉」がある。試みという訳だ。ただ、悪癖が抑制された分、平坦さが強調されてなにか言いたくなるほどよくもない。私はもうがんばって引こうとは思わない(引くべき者はべつにいる)。


 本の最後は「Falling Space」、おそらく散文詩を意識してかかれたテキストかと思われる。この詩もべつに歌集を救わない(「詩」で「歌集」が救われたら、それこそ悲惨ではないだろうか)。「黒田喜夫のかたわらをとおりすぎ/『もう一度言葉を信じない』/と書いたかれをうらやみつつ/きのうも三桁のゼロを意識していた」、黒田喜夫を通過したという歌人が肝心の歌において反復するものの質、に複雑な思いは抱くとしても。

が、活字の汚れっぽさがあわれでならない。

 この一節は歌集を救わない。作品よりも作品が印刷される紙面の美観を気にすることの、見てくれへの眼をそむけたくなるような愛着のこもったこの一行はとりわけ、救わない。


古いニュースか何かの映像を見ていた
白黒の映像をアナウンサーの声が解説している
アナウンサーの発声について、昔っぽい喋りだな、と思ったが
その昔っぽさはどこからきているのかということを考えてた
panpanya「気配」『蟹に誘われて』


藤という燃え方が残されている/八上桐子『hibi』


 第一歌集のこうした悲惨のあとにどんな軌跡を選びとっていったのか私さえ気に病むとき、近藤和中の第二歌集はいない。それは責められない。近藤和中だけがそうであった訳でもない。誰もが踏む罠を人一倍踏み抜き切っていけばそれも栄光のひとつに数え上げられただろうにせよ(「百年後も駄歌としてみんなに語り継がれる歌」)、『帰ってきたエルンスト』はそのような凄みかたをしてみせることすらない。
 読まなくていいよ。ほんとうに。読むべきはもっとある(でしょ?)。ひとにはそう言う。私は忘れない。ここにある言葉の負債は私の負債だから。


秋は深くなりました
星と星とのあいだには
もう栄光の差なんてありません
鮎川信夫「秋の祈り」


 嘘をつかないで、
 と、この「秋の祈り」に詰め寄ったりはしない。


なぜだろう 幸せだと思う度に 空はだんだん尖っていくの真祐、「らじおぞんで


「海のむこうに幸福があるかもしれないけど ここにみつけられないで海のむこうにみつけられるとは思えない」清原なつの「飛鳥昔語り」


 その余光に。