starstruck

 さしあたり「星の匂いのこびりついた歌」とでも呼んでおく。


 短歌形式にとって「秀歌」と「星の匂いのこびりついた歌」は、道徳と倫理の違いに似ている。それはまた、神話的暴力と神的暴力の違いに似ている。道徳はかかれ、また言われたものであり、誰でも参照できるものだ。倫理は違う。倫理はその場でひとりひとりが独断的に誕生させるものだ。他人の倫理に倣うとき、それはすでに道徳化されてあるということだ。条項化され内面化された道徳をあるひとりの人間の無謀で瞬間的な倫理が断ち切るように、「星の匂いのこびりついた歌」は「秀歌」という多数の勝者の法の措定圏域に一個の醒めない穴をまくりあげてみせる。QOLとしての「秀歌」はその評価基準の相互参照に裏打ちされたグラデーションの豊かさによってひとをあたため、活気づけ、驚かせ、あるいは慰め、失望させ、激昂させ、端的に無視させる。それがなくては短歌が立ちいかれないだろうことは事実としても・・・「星の匂いのこびりついた歌」は、そうした「秀歌」の成立条件と、現にそのようにしてあるという様態の真ん中から一個の醒めない穴をまくりあげてみせる。
 「われわれが望むのは、われわれを星々に結びつけている絆が、われわれを大地に繋ぎとめる絆にとって、致命的なものとなることである」(ジョー・ブスケ)。しかしまさにここで、「星の匂いのこびりついた歌」は「秀歌」の大地性に反して登場した自らの革命罪を切なくも償うかに私には見える。「星の匂いのこびりついた歌」を「秀歌」の法に反して慕い、愛し、模倣をこいねがう「信者」たちの胸をしめつける出現とその営為によって・・・・。このようにして「星の匂いのこびりついた歌」は「秀歌」同様、一種の「いい歌」とみなされ、以後同じカテゴリーのもとにあるかのように語られていく。しかしこのときすでにそのカテゴリー、その短歌における「いい歌」の基準は以前措定され運用されていたものから致命的な変更をこうむっている。なにかが通用しなくなり、なにかが新たに始動された・・ということ。「星の匂いのこびりついた歌」の登場によって短歌のなにが一変してしまったのかあとからたしかめることはかぎりなく困難になることを今、誰もが気づいている。なにかは変わったのに、なにが変わったのかは判らない──これはまるで良性の不可能性? いや、「アルデバランの青くきらめく下にして」誰が短歌に約束のように向かったのかを気兼ねする、とても使徒ならざる唾の泡の破片からの思いとして。