いまどきの受容者らしく「小説は言葉の運動や形式の冒険なのであってストーリーなどさして重要でない」と言える者が、アニメやビデオゲームといったジャンルにふれる段になると途端にシナリオや映像しか眼に容れなくなったりする(かも知れない)。アニメの多くは声優という経験、ゲームの多くは操作という経験なのにそれらがきれいに忘れられる。あるいは映画における諸問題に精通してきて「このおはなしの意味」というものに今や十分警戒できていると自負する者が、短歌を読もうとすると「歌意」でしか把握できなくなることもある(かも知れない)。短歌の多くは音という経験なのにそれがきれいに忘れられる。もちろん構図はもっとかきまざっている。歌人や詩人がアニメを見当違いなところからナメた調子で独断してこちらを思わず赤面させたり・・・。だからといってどうという訳でない、ただこんなのもありふれた光景で──みんな、自分で吐いた唾を知らずに自分の口に戻しているだけですね。私だって何度もやってる。それにしてももうちょっと・・(・・・・・・)。


ひょっとしたらこうした感じ方は反時代的に映るかも知れない。だけれども、「信頼できる・できない」というのはただでは使えない言葉だと思わないだろうか? こうした思いは年を重ねるほど強くなる。ある書き手の手を信頼できると思うにはまず自分の手がその書き手の手から信頼を受けていなければ・・・・という論理学での対称性を「信頼」は無言のうちに秘めていると思うからだ。ある書き手の手について「信頼できる」と口にすることは、反射的に自分の手にもその責を負わせずにはいないと思うからだ。自分の手は信頼されうるものに果たしてどこまでなっているのか、という詰問としてはねかえってこざるをえないのが「信頼」という言葉だろうと思うからだ。「信頼できるだと? お前のようなやつから信頼されたくない。私を信頼するのだというお前が今のようでしかないのなら、お前を私は軽蔑する」と、正しくも、作品は口をきいてこちらへ反論してくることが悲しくもありえない以上、しかしほんとうであればそうした反問が作品のいずこにも宿っている筈である以上・・・・・。信頼できるとは、火傷なしには言えない言葉だと思わないだろうか。
空気を入れ換えて・・・・・・・たしかにもっと軽率に使っていい言葉でもあるのだとは思う。言語情況上の趨勢は現にそうなっているし、ひとはやはりそれぞれの必要性や愛着において信頼という言葉をそっと自分の皿に取り分けてもいく。それは「善い」ことだと頷いてみたい・・・と同時に、一方でまた、「お前こそどうなんだ?」という自力で立てるしかない問いをたとえ微量でもなしにしたまま口にする信頼とは何?と考えこんでいる。