山中智恵子『星醒記』(砂子屋書房、1984年)10首選

フオマルハウト水甕の水そそぎなばよみがへらむを水なき哀歌


襟ほそくわれは病みにききみゆゑにまたきみゆゑにねむらむとする


海よ海よ 汝が前生に天草の海あり夏をさかんなるかな


わがとほき心にふれて肉に棲むまどひに触れずゆきしきみはも


アルデバランの青くきらめく下にして約せしことの半ばは成りぬ


ガーベラやみやこわすれをもとめきてノヴァーリス読む たたかひなりし


獅子座流星群きみと観し夜の夢のこと夢夢夢と語り残せし


プルーストに本歌を問はばひたむきに水沢城とよぶもよからむ


をみなありひとりチョコレート食まむとすかく書き出し何の筋立 ※出(いだ)、筋立(すぢだて)


夕萱は琥珀にふるへ日の差してこのうつせみをかのうつせみへ

ぼろぼろに疲れてる歌集とも思えるし、手癖を恐れないところから新しい声調を窺っている歌集のようにも見える。この歌集での「狂院」って言葉の持ちこみ方は、塚本邦雄の「エイズ」と同じくらい不用意だとは思いますが。
「フオマルハウト」も山中智恵子の手癖ならではの美観(たりえてる/でしかない)だと思うけど初句がとびきり贅沢なので。「そそぎなば」のあたりで言葉がうれしがってるので。あとこの歌集ではリフレインから言葉の同一性についてなにか侵犯的にふれてみたそうな歌にいいものがあると思って、「きみゆゑに」は愚直に重ねて言うことで、「天草の海」は海の前生にまた海を引きずりだしてくる根性によって、「このうつせみをかのうつせみへ」の認識と修辞はほとんど凡庸や軽薄の位置で鳴っていながらやっぱり眼で追っているときだけは真実、眼で追っているときだけが真実、という思いにうなだれて。字は、それだけでなにかを起こしてしまう。このうつせみをかのうつせみへ。
時期的なものを数えると、「チョコレート」の歌は台頭してくるライトヴァースの気配への予感的挨拶に見えます。それ引くかあ?と言われるかも知れないけど私は引いてみたくなったんだ・・・。それ引くかあ?というのも引くことをもう少しこれから・・・とも思ってるけど。「プルーストに本歌を問はば」はかっこよ・・!と背筋、伸びる、総毛立つ歌に、結句の「よからむ」という判断の妥当性に躓いてしまうことで、私には、悔しくも、なれなかった歌。
「わが夫よきみこそ巫覡かきたててわれを顕たしむきみこそ巫覡」「ゆゆしき巫女と異称されつつ生きたりし巫女の終りをいかにすぐさむ」と、自己言及の歌にふれることがすでにまたなにかに加担しかねないところがあって、だからここではべつのことを言おうと思った。

私は一度使った名詞は神経質に封印したくなるんですが(「姉妹」はもう使った、「黄昏」はもう使った、とうとう。「夜」とか「太陽」まで封印するとさすがにつらいので残す手札は残すけれど)、「星月夜三百六十五日あれわがうたを写経のごとくうたひてあらむ」はくすっとしてけっこう嫌いじゃないです、いっそ破れかぶれで。「星」や「夢」を惜しげもなくガソリンにして歌いを回すことにはたしかに、「言葉はくちにだすほど擦り切れる」というような常識的な不安とはべつの行き方があるのかも知れない。