与謝野晶子『みだれ髪』から『夢乃華』まで20首選

とおもへばぞ垣をこえたる山ひつじとおもへばぞの花よわりなの/『みだれ髪』


花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ


天の川そひねの床のとばりごしに星のわかれをすかし見るかな


海に入りて海にさくべき春の君と或ひと見たる白牡丹の花/『小扇』 ※白(はく)


第一の美女に月ふれ千人の姫に星ふれ牡丹饗せむ/『恋衣』「曙染」 ※饗(きやう)


わが命に百合からす羽の色にさきぬ指さすところ星は消ぬべし ※命(めい)


ほととぎす海に月てりしろがねのちひさき波に手洗ひをれば/『舞姫


梅幸の姿に誰れがいきうつし人数まばゆき春の灯の街 ※梅幸(ばいかう)


冬は来ぬ室に夢見む春夏秋ひつじとまじる草の寝ごころ


わが愛慕雨とふる日に蛼死ぬ蟬死ぬとしも暦を作れ ※蛼(いとど)


君めでたしこれは破船のかたはれの終りを待ちぬただよひながら/『夢乃華』


春の月は梅の木原を少女ゆく西方にしも落ちはててける ※木原(こばら)、少女(をとめ)、西方(さいはう)


もの云はぬさまは桜の化石かと思へおん手の脈はやき君


天上の善き日におとる日と知らずおんいつはりの第一日を


霜ばしら月の宮居にあくがれて夢見る土のむねにうまれぬ


椿ちる島の少女の水くみ場信天翁はなぶられて居ぬ ※信天翁(しんてんおう)


心てふ見えざるものを弔へといはれて泣きぬちひさき友は


末の世に双なき人と逢ひそめし悪因縁を美しむかな ※双(さう)


万物は金のぬき糸しろがねの経に織りける中に在り昼 ※経(たて)


幸を知る日ごと夜ごとにひとつづつ星のうまるるわが上のそら

夢乃華』10首選のつもりで読み返してたのが範囲広げたくなってしまって。どの歌集からも選ぼうとすると熱中してしまう、与謝野。後期の歌集もいずれちゃんとやらなくちゃと思う。
「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」とかは今のほうがずっとそのすばらしさが判るようになったけれど、短歌を読みはじめたころはとにかく「魔」という単語があることが私に優しかったです。「魔」の対象がなんだろうと、「魔」と言うことでなにを念じていようと、字として「魔」があるというだけで読んでいけました。あるいは「琴」に話しかけるとか、「童子」、「神」を直接だすとか・・・そういうあたりですね。と言いつつ上では採ってないんですが・・・。
一首だけ言うと、「君めでたし」の歌は韻律一等星。私の読み声からすると、下の句は4句目を3・4で刻んだほうが平坦さを回避できそうに思ってしまうけれど、そこは悩ましく感じるところだけど。それでも、こういう旋回力で最後までもってく韻律が自分にも持てたら・・・と願わされる。なにか異様な叙述を記した6音の初句切れで眼を剥かせておいて、続く2句3句を3・4・5音という率直な増音のマーチングで詰めてくつくりは同じく私にとっての韻律一等星、「Right Here(まさにここに) されどわれらは遅々として死へとおざかる温もりをもつ」(三枝浩樹)に似てる。ただ三枝の歌が文法としては逆接でありつつ、後から振り返ったとき全体の表現においては順接なことでそれこそ一本の幹/一枚の護符のように歌がなってるのに対して、与謝野の「これは破船のかたはれの」は変格的に入って、螺旋的に抜けていく。漂う、は明らかに無数の歌に強力なバフをかけてきた措辞ゆえに、それが使われてる歌にはガードが下がりハードルは上がるとでもいうような気持ちになるけれど、一見容易に結びつきやすそうな「破船」という名詞と「漂う」という動きとが、ここでは思った以上に遠い。2句以下の旋回の軸にも、目的地の岸辺にもならないでなにか錆びついた古い光のように浮いてある初句ごと飲みこんで、この歌の音で巻いていくスクリューにはいつもつきまとわれる。