雑誌のファウストで一個だけ今になって嫌いじゃないかもと思えるところはフォント名を明記してくれてたとこですね、購読してた当時はなにこれ、わずらわしい・・としか思えなかったのだけど。今のほうがフォントに強く興味をもっちゃってる事情もあって。
「フォントにくわしいということ」と、「花にくわしいということ」とがおそらくだぶって見えてしまう。私にとってはどちらも得意でないものだったから。

本(だけじゃないけど)が買えない状態が何ヶ月も続くと気が滅入ってしまう。口籠、という言葉がしきりに頭に流れる。まるで本を所有できないことが声を放つための口という器官にじかに関わるように。口籠。
「人間を撲つ音だけが書いてある」(阿部青鞋)。ひとの心どころか、文字を読むことがすでになにかしらテレパシーに通じるところがある、という示唆が『見えるものと見えないもの』(モーリス・メルロ=ポンティ)の断片にあったと思う、「読むことはテレパシーに似ている」、それは深く傷めつけるような箴言性によらない滞空するメモのひとつであるだけに薄く、だけどしつこく胸に残っている。